江戸三大祭り 01
Beat of our hearts never ends.
That's the best part of the Matsuri culture rooted in Japan.
Kanda Matsuri Festival
The parade of floats are decorated with Shoguns.
They never fade away even as time goes by.
Inspired by the energy of the Festival.
The Kanda Matsuri is one of the most famous Tokyo festivals and is also ranked among the three largest festivals of Japan. Kanda Matsuri is also called 'Tenka Matsuri("Tenka"meaning Shogun)as this festival was supported by the Shogun during the Edo Period(1603-1867)and permitted to enter the grounds of Edo Castle, the Shogun's residence.
The main festival is conducted in years ending in odd numbers by the Western calendar, and main festivals are held in much larger scale than those in even-numbered years.
The main attraction in the main festival is the parade(procession). The procession is held on Saturday and about 300 people march through central Tokyo districts such as Kanda, Nihonbashi, Otemachi and Marunouchi. In addition to the marching people, mikoshi(portable shrines), all kinds of floats with beautiful decorations, and Shinto priests mounted on horseback line up in rows, producing a spectacular sight. On Sunday, almost 100 small and large portable shrines gather from different districts to the Kanda Shrine.
As the Kanda Myojin Shrine is located in the former central quarter of Edo(Tokyo), Kanda Matsuri is a high-spirited and jovial festival reflecting the Edo people's temperament and characteristics.
<SHRINE LOCATION>
Kanda Myojin Shrine
Address: 2-16-2 Soto Kanda, Chiyoda-ku, Tokyo
telephone: 03-3254-0753
Transportation:
5 minutes walk from Ochanomizu Station of JR Chuo Line, JR Sobu Line, Tokyo Metro Marunouchi Line 7 minutes walk from Akihabara Station of JR Keihin Tohoku Line, JR Yamanote Line, Tokyo Metro Hibiya Line
神輿 深川 山車 神田 だっだっ広いが 山王様 いよっ日本一 三社祭
神田祭 神田明神
山 車 に 時 代 の 隆 盛 あ り
歴 史 が 移 れ ど 変 わ ら な い
祭 り の エ ネ ル ギ ー に 触 れ る
天下に名を馳せた江戸の風物詩
神田祭は江戸三大祭りの「山王祭」と並び、将軍上覧の目的で江戸城中に入ることを許されたため「天下祭り」とも呼ばれた。最盛期の江戸時代には、華麗な山車(だし)が36番組の町々より出され全国最大規模の祭りとして日本一の祭礼とされていた。しかし徳川幕府の滅亡、明治以降の社会情勢の変化などにともない、大きな変化を求められてきた祭りである。
三大神を祀り、徳川家と江戸を守護
神田祭が行われる神田明神は、天平2年(730年)に出雲氏族で大己貴命(おおなむちのみこと)の子孫にあたる真神田臣(まかんだおみ)によって武蔵国豊島郡芝崎村、現在の千代田区大手町に創建されたとされる。
延慶2年(1309年)には、平安時代に名を馳せた豪族・平将門を葬った墳墓周辺で天変地異が頻発したことから供養され、その後、神田明神に奉祀。
以後、武運に長けた平将門命に祈願すると勝負に勝つといわれ、戦国時代には北条氏綱や太田道灌などの武将によって手厚く崇敬された。天下分け目の関が原の戦いにおいては徳川家康が戦勝祈願を行い、天下統一を果たしたことから徳川家にとって縁の深い神社として尊崇される存在に。
元和2年(1616年)には、江戸城の表鬼門を守護する場所として現在の千代田区外神田へ移り、「江戸総鎮守」として庶民から幕府まで幅広く参拝を集めた。
華やかな祭りの主役に訪れる時代の変化
江戸時代の神田祭は山車が中心だった。今日の祭りで一般的となった神輿が普及したのは明治後期からで、当時は数十人の手によって曳き出される山車が祭礼の主役。あまりに荘厳な山車を造ることで祭りに莫大な費用がかかることから、天和元年(1681年)に神田祭と山王祭を隔年、かつ交互に行うよう幕府の命が下されたほど。
さらに仮装行列や造り物などを総称した附祭という行列も出されるようになり、なかでも地震を防ぐ「大なまずと要石」の造り物は当時の絵巻物にも描かれていた祭りの象徴的な存在であり、また御祭神であるだいこく様(大己貴命)、えびす様(少彦名命)、平将門公を祀った山車の煌びやかさは天下祭りの名に恥じないものだった。しかし明治時代以降は近代化の都市整備が進み、東京の街路には電線が張り巡らされる。特に明治36年(1903年)以降は市電が走ることによって、山車が街を練り歩くことが不可能となる。以降、祭りの主役は山車から神輿へと変化していった。
90の神輿が威勢を響かせる宮入は必見!
現在の神田祭は2年に一度、5月15日に近い日曜日を中心として、約5日間にわたり開催。前夜祭として神職たちによって神霊を神輿に遷す鳳輦神輿遷座祭(ほうれんみこしせんざさい)で幕を開ける。雅楽の音色と松明の光に囲まれた夕闇の中、白装束の神職が厳粛な雰囲気で執り行う神事は日本の伝統を今に伝える神聖な行事だ。翌日には氏子町会神輿神霊入れとして神田、日本橋、大手町と東京の中心部108ヶ町会から大小あわせて約180基の神輿が集結。各町会神酒所で神職の奉仕によって神輿に神霊が入れられる。
祭りの見どころのひとつである神幸祭は3日目に開催。早朝からだいこく様、えびす様、平将門公を祀った3基の鳳輦(ほうれん)を中心に、総勢300名以上の平安装束をまとった人々が神田から日本橋など約30㎞を練り歩く。行列の先頭を行く諌鼓山車(かんこだし)は雄鶏を掲げた伝統のもの。また目を引くのは魔よけの霊獣である黄金の獅子頭を雌雄で飾りつけた山車で、行列を守護する役目を果たしている。巡行には途中の町で神輿も加わり、再び神社へ戻る頃には数千人という膨大な規模の行列となる。
そして祭りのクライマックスは日曜日に行われる神輿宮入(みこしみやいり)。秋葉原駅から中央通り周辺が “みこし天国”となり、大変な熱気に包まれる。宮入を果たすために集まった約90基の神輿が「セイヤッ!セイヤッ!」のかけ声を響かせながら練り歩き、いまも昔と同じく祭りを楽しむ心意気を感じさせてくれる。
特に注目は「千貫神輿」と呼ばれる江戸神社(旧神田市場)の巨大神輿。約200人の担ぎ手によって支えられ、周辺に控える人数も合わせると総勢2000人とも言われる大集団のエネルギーは必見の迫力だ。祭りの観覧はすべて自由なので、詳細な日時を確認のうえ、ぜひ足を運んでみよう。
また神輿宮入の後に行われる献茶式や例大祭も、古式ゆかしい日本の文化を知ることができる貴重な機会だ。なお神幸祭や神輿宮入が行われる本祭りは、江戸時代のしきたりに従い隔年開催のため、本祭りが行われない年には蔭祭りとして大神輿のみが練り歩く、大神輿渡御(おおみこしとぎょ)や毎年恒例の献茶式薪能(金剛流、有料)などが行われる。時代が流れても変わらぬ「祭り」の熱気に、身を任せてみよう。